石神井城跡 氷川神社 道場寺 池淵遺跡

    

 石神井公園ボート池       三宝寺池

    
        
三宝寺池

豊島氏は桓武平氏の流れをくむ平安時代以来の武蔵国の名族だった。文明9年(1477年)4月、当主豊島泰経は江戸城主太田道灌との江古田・沼袋原の戦いで敗れ、舎弟の平塚城主泰明をはじめ多くの家来が討ち死にした。

古河公方足利成氏と関東管領上杉氏との享徳3年(1453年)以来の長期に渡る戦乱である享徳の乱では豊島氏は上杉氏に味方していたが、この乱を通じて武蔵国で大きく勢力を伸ばし江戸城(東京都千代田区)、河越城(埼玉県川越市)、岩槻城(埼玉県さいたま市)を築いた扇谷上杉氏家宰の太田道真、道灌父子との対立の原因は豊島氏の領域近辺に太田氏が江戸城を築いたことで豊島氏の権益を脅かしたのであろうと考えられている。

泰経は居城石神井城へ逃れる。道灌は愛宕山に陣を置き石神井城を包囲した。
文明9年(1477年)4月28日、道灌は総攻撃をしかけ、落城の刻が迫った。泰経は豊島氏重代の家宝「金の乗鞍」を雪のごとき白馬に置き、これにまたがって城の背後の崖に登り、道灌の兵たちが見守る中で白馬とともに崖から飛び降りて三宝寺池に身を沈める。
泰経には照姫という美しい二女がいた。照姫は父の死を悲しみ、父を追って三宝寺池に身を投げた。
文武の名将道灌はこれを憐れみ、照姫の亡骸を弔って塚を築いた。この塚はいつしか姫塚と呼ばれ、そのそばに立つ老松に登ると池の底に泰経とともに沈んだ金の鞍が燦然と輝いているのが見えると云う。この松の木は照日の松と呼ばれる。


 

   

   

石神井氷川神社

応永年間(15世紀前半)に豊島氏が一宮氷川神社を石神井城内に勧請したことに始まる。境内に豊島氏の旗本豊島泰盈・泰音親子が1699年に奉納した石灯籠がある。


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